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説教 2016年3月

説教 2016年3月

3月27日『試練と祝福』

(天一国四年 天暦2月19日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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聖書に出てくるアブラハムという方は、神様を仰いで信仰してきた家庭の出身ではありませんでした。偶像を作って売る商売をしている家庭だったので、天から見て、唯一の神様に反する、サタンが一番愛する家庭、サタンの先頭をきるような家庭の出身でした。では、神様はなぜそのような家庭のアブラハムを選んだのでしょうか?

旧約聖書(復帰摂理)の中で、アダム家庭、ノアの家庭の失敗がありました。神様が一番愛する人物がサタンに奪われています。アダム家庭のアベル、ノア家庭のハムです。一番愛するものをサタンが奪って行ったので、神様は、サタンが一番愛する家庭の子供を連れてきたのです。それが、アブラハムでした。彼は、偶像崇拝を一生懸命していて中途半端ではない人、サタンが愛さざる得ないような人でした。熱心に神様を信仰して愛している人をサタンが奪っていくので、神様はサタン側から一番サタンが愛する人(アブラハム)を選んだのでした。

75歳のお爺さんであったアブラハムに神様は、長年住んだ故郷を離れるよう言われました。そして「あなたは祝福の基となる。」と天から導かれて祝福され、彼は希望をもって出発しました。でも故郷を離れるということは、苦労する、ということです。これから向かう地には迎えてくれる環境があるわけではないのです。でも、目に見える苦労を分かりながらも、神様が見守ってくださり、導いてくださると信じて出発したのです。

85歳になったアブラハムには、まだ子供がありませんでした。神様はアブラハムに、あなたの子孫は空の星のように地に溢れるようになる、と言われました。信じられないアブラハムでしたが、86歳の時イシマエル、100歳の時イサクが生まれたのです。
その後神様は「今から私の為に祭壇を供えなさい」と言われ、アブラハムは祭壇を備えましたが、鳥だけ裂かなかったことによって「あなたの子孫は400年僕(しもべ)になって苦労する」と言われました。

天は、アブラハムに「あなたにこういう祝福を与えるから」と言われ、色んな祝福をしながらも、「今から故郷を離れなさい」「祭壇を準備しなさい」とも言われ、それに失敗することで、後孫が400年間苦労することになります。

16歳のお父様(文鮮明先生)にイエス様が現れ「今からこの使命を受けなさい」と話します。「いいえ」と初めは断られました。とても簡単ではないことをご存知だったのです。聖書を勉強すると、イエス様の人生、歩みはどういう道であったか分かります。神様が送られたメシヤであるイエス様、そのイエス様の歩んでいった人生自体は、孤独であるし、悲しいし、準備された群れたちは全部イエス様を離れているし、準備されてない人たちを連れて、転々と山に行ったり野原に行ったりしてみ言を伝えていきます。そういう中で、イエス様の孤独な姿、最終的に十字架の道を行って亡くなられる、その姿まで分かってるお父様から見れば、イエス様の使命を成してくれ、と言われても、あまりにもその使命は大きいので、イエス様を愛しますが、16歳の年で使命を受けると決意することは簡単ではありませんでした。

神様は祝福の内容も与えて下さいましたが、お父様から見てその道は、苦難、苦労の道です。お父様は、故郷、国をすべて捨てて迫害を受ける、悪口を言われる道を行かざる得なかったのです。お父様の道は、天から選ばれて祝福された道でありながら、この世的に簡単ではない道です。親、兄弟を捨てなければならないし、国から離れ、アメリカでお父様を迫害するその国を祝福する、という内容もありました。日本においても、共産主義に染められそうな危機に際して、日本の未来を考え救おうとされました。一つ一つを考えれば簡単ではない道でありながら、その試練、苦労の道を行きながら、神様から見て、祝福、ビジョンを見せてくださいました。

この道を出発するときの私たちと同じです。「こういう世界になる」と、神様が祝福してくださった世界、「あなたたちはこういう内容をもって、こういう世界になって、こういう祝福を天から受ける」という祝福を頂きます。ビジョンを見せてくださいます。天の国、理想の世界、理想の国があり、理想の氏族、民族がそこにある、と言って出発しました。この道は、苦労、苦難の道でありますが、必ず、天は先に見せてくださった祝福を成すために行かせる道なのです。アブラハムもそうでしたが、試練と苦難を越えた後の祝福を天は見せてくださいます。

リオのオリンピックに向け、今、金メダルを取るために一生懸命練習している選手たちがいます。金メダルを勝ち取る姿を思い描きながら努力しています。
また、色んな研究している方たちは、実に何千回、何万回という実験をし、最終的に人類に光を与えます。彼らは、人々がこう喜ぶ、世界がこうなる、とイメージを描いています。でも簡単ではありません。倒れそう、挫けそうなりながら、それでも信念を貫きます。夢、ビジョンを描いても、周りからは反対に会うことが多いです。でも必ずその夢を叶えたい、と誰も理解してくれない中、時には共に歩んできた人までも背を向けることもありますが、変わらず研究を続け完成していきます。そこに至る人は、強い精神力があり、そして孤独な道を行きます。

本田宗一郎さんがバイクを作ろうとしたとき、皆、反対しました。でも彼は世界に通用するバイクを作りました。車の時も同様でした。そして今や飛行機を作るようになりました。ホンダというメーカーは先を見て進んでいっています。それから、コダックフィルムと富士フィルムの話もあります。フィルムが一番売れている時期に、富士フィルムは切替え(改革)をしました。最高の基準であっても、他の分野(製品)、医療機器、医療カメラに改革をして切替えました。そのままだったコダックは名を残さず消えてしまいました。富士フィルムの改革も周りは反対しました。このままでよいのでは?と。そこにおいて試練を真正面でむかえ突破していくことが出来たのは、目標、ビジョンが明確にあったからです。

お父様は、絶対最初に決めたもの、16歳の時決意したことを、一生涯、聖和されるまで貫きました。一生、天の国を夢描きました。絶対信じながら歩まれたお父様です。その道を私たちは今も共に歩んでいるということは、それが、ぶれてない、壊れていないし、今も生きているからです。本当に苦難のとき それを乗り越えていく力は、次の希望があるからです。

今、若者たちがなぜ苦しんでいるのでしょうか。希望をもって夢をもって明確なイメージをもって目指していく人は、今現状が苦しくても、そこに行こうと越えていける力があります。でも、そういう夢、希望が無かったり、崩れたりすると、毎日の生活で、自分がなぜ生きるのか、と思い、人生の目的も分からず力を失い、生きている価値、意味があるんだろうか、と思ってしまう人もいます。しかし天は、一人一人の将来に必ず祝福している内容があります。天が一人一人にかける願いがあります。自分の目指す夢、希望、そこに天の願いもあります。今現実、悲しいことや苦しいことがあったとしても、そこを目指していくかどうかです。色んな悩みを抱えています。皆が幸せに見えるかもしれませんが、親子、嫁姑、夫婦、いろんな課題を抱えています。そこをいかに越えていけるかです。現実はもめていても、理想があって目指していこうと描いている目標があれば、今の苦しいこと、悲しいことを越えて目指して、今一歩踏み出すことが出来ます。でもその理想(目標)が無く、見えない、となれば、現実はただ苦しいだけ、悲しいだけ、辛いだけです。今の自分の苦しさ、悲しさ、辛さだけで、違うものが見えません。だから、いかに天が自分に(自分の国、世界に)求める内容があるのか、その祝福の内容を探して見出すかです。
家族に色んな課題、苦しさがあったとしても、そこをまとめる力は、理想の家庭、世界に向かってどうやって目指していくか、が大切なのです。

愛することには犠牲が伴います。自分の好き勝手には出来ません。理想を目指していくには犠牲になることがあります。子育てをする母親がそうです。やりたいことを我慢します。簡単ではありません。子供の立派な成長を夢見て希望を持っているので、現実苦しくても大変でも越える力があるのです。自分がイメージしているものがあるからです。私たちには、いろんな試練を抱えていたり、先祖の蕩減もありますが、全部をまとめてそこに行こうとする私たちの理想があります。今現実苦しんでいたとしても私たちは希望を持たないと、現実で挫けてしまいます。いかに家庭が、氏族、民族、世界が、天の祝福してくださる内容(希望)をもっていくか、どうかです。そうして、そこを突破する力がない限りは今の現実に崩れてしまいます。なので、毎日感謝をそなえながら、この一歩で次の一歩を進む、また次の一歩で成長する、また良い方向へ一歩を出すのです。私たちは、原理で言う「復活」をする、一日一日、善に向かっていくのです。毎日、天の方向、善の方向へ一歩ずつ進んでいきましょう。天が祝福した一人一人への幸せな理想、希望に向かって、整理し、目指していきましょう。

【み言訓読】 ◎旧約聖書 創世記12 他

◎旧約聖書 創世記12
1.時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の実を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2.わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3.あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4.アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5.アブラムは妻サライと、弟のロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6.アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7.時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8.彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。
◎旧約聖書 創世記15
3.アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。4.この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。5.そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。6.アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。7.また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。8.彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。9.主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、やまばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい。10.彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。11.荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。12.日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。13.時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。14.しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。
◎天一国天聖経 第3篇 真の愛
第3章 真の愛の実践 
第3節 真の父母の真の愛
34.先生は、故郷も捨て、国も捨て、韓国教会もすべて捨て、迫害を受けて悪口を言われながら、追われる歩みを今までしてきました。私たちは、追われ追われて発展するのです。私たちは、絶望的な人々ではなく希望的な人々です。何をもってしても切ることのできない絶対的な愛で一つになった人々なので、私たちを占領する人はいません。愛だけがすべての勝利をもたらすことができるのです。愛がある所に永遠の勝利と永遠の天国が成し遂げられます。愛の前では、すべてのものが解放されます。先生は、そこに向かってこうとうするのです。

3月20日『私の天の父母様、真のご父母様』

(天一国四年 天暦2月12日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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神様に対しては、色んな見解があります。ローマやギリシャの神話の中では、神をゼウス、ジュピターとそれぞれ、同じ方を呼びながらも呼び方が異なります。色んな国、民族によって違います。
日本においては、お父様は「やおよろずの神、と言って何万の神がいる」と言われました。このようにギリシャもローマも日本も色んな神がいて「神様」という感覚がぼーっとしています。

唯一の神様を信じていた民族がいます。ユダヤ民族とイスラエル民族です。この二つの民族が信じている神様は同じ神様です。なぜなら、先祖が同じだからです。アブラハムの後孫に、イサクとイシマエルがいます。イサクを中心とした後孫がユダヤ民族です。イシマエルを中心とした後孫たちがイスラム圏を作りました。なので旧約聖書の創世記の内容はコーランにも載っています。

旧約聖書においては神様は「絶対的な力を持っている方」のように表現して「神様」と呼びません。「神様」と呼ぶこと自体を恐れています。やがてイエス様の時代に来て「神様」に変わっていきます。
唯一絶対、根本的な神様を表現する流れは、ユダヤ民族とユダヤ民族から流れていくキリスト教です。
世界の歴史の中で、アブラハムの後孫、イスラム圏以外に、ただ一つ、唯一の神様を仰いできた民がいます。それが韓民族です。神様に侍り出発から神様を通して国を建てていった民族です。神様が予定され準備されたのです。

6000年が過ぎ、今、家庭連合(統一教会)を通して原理(み言)を学んで、私たちは、唯一絶対全能の神様、無限なる創造主たる神様、全ての根本、親なる神様、という感覚を持っています。唯一の神様を感じていった私たちの感覚と日本の風土などから沢山の神様を仰いでいる人々との間にはギャップがあります。そのことを理解した上で神様を教えない限りは、はっきりと神様を伝え、理解してもらうことは難しいだろうと思います。

真のお父様がこの地に来られ「神様は父母である、親である」と教えてくださいました。お父様は原理を究明するため、精誠を尽くしながらずっと祈りました。なぜ堕落した罪悪世界で神様はこの人類を長い歴史を通じてまだ救っていこうとされているんだろうか、なぜイエス様を送り十字架の道に行かせた後にもまだ再臨を約束しながらこの人類を救おうとされているのだろうか、イエス様を十字架に道に行かせた人類を神様はどういう内容をもって救おうとしているんだろうか、とお父様はそれをずーっと祈る中で得た最後の結論、鍵が「神様と人類は親子である、父子関係である」だったのです。

神様と人類は、親子であるので切れないのです。切りたくても切れない関係なのです。いくらその子供がどんなに罪を犯したとしても、最後に親はその子を許します、愛するのです。そして、何とか救おうとします。それは変わらないのです。他人だったら「悪いね」で終わります。でも親なので切ることも捨てることも出来ない、許していかざる得ないのです。親の立場では、子供の罪自体が親の目には見えないのです。
特に、天の父母様(神様)は、愛の根源であられますので、子供の罪に目を向けて「お前が悪い」と裁くことよりも、愛の方が大きいのです。愛が深いので、神様は許していき、愛していくのです。だから、いろんなことがあっても、大きな罪を犯しても、特に親の立場から見ると、子供の代わりに謝って、代わりに罪を背負いたいと思います。(子供を)許すのは、親しかないのです。どういう状況であったとしても、それは「親」であるからなのです。

神様は長い歴史をかけて、なぜこの人類を離すことが出来ないのでしょうか。なぜこんなに預言者を何度も送って、何度もその預言者を殺そうとし、追い出そうとする人類を、しかも最後には愛する独り息子を送ったのに、それでも十字架に行かせる・・・それを見ながらそれでも神様は再臨の約束をしてメシヤを送ろうとする、その根本は「親である」からです。

その鍵が解けた瞬間、お父様は、原理の根本的な内容が解けた、と言っておられます。結局私たちが求めることは、親(神様)の元に帰ることです。どんなに「あの人は悪い」と言われる人だとしても神様から見れば子供です。戻ってきてほしい、帰ってきてほしい、帰るまで待つ神様なのです。ここを理解することによって私たちは変わります。
私たちにとって神様は、隣りの誰かの神様ではないのです。私の神様、自分の神様なのです。

イエス様は神様を「わが父」と表現されましたが、ユダヤの人々は、貴い神様を冒涜した、神様を父と呼ぶなんてあり得ない、イエス様を何とかしたい、と思っていました。ある時、姦淫した女性を連れてきて「この女をどうしますか」とたずねます。イエス様をいかに裁いて審判していくか、という目的をもってたずねたのです。ユダヤ民族の律法では、姦淫を犯すと石打ちの刑となるのですが、ローマでは裁判をします。当時ローマの支配下でした。なのでもし「許しなさい」とイエス様が言ったならばユダヤの法律に反してしまうしどうしようもない所にイエス様をはめていったのです。
イエス様は「罪が無い者だけが石を投げなさい」と言われました。誰も投げることが出来ず去っていきました。そして女性に対して「私もあなたを裁かないから今からは罪を犯さないように生きなさい」と罪の無い立場で許していかれたのです。
そしてイエス様は語られています。「神様が私(イエス様)の父であれば、あなた方は私(イエス様)のことを愛するだろう。」つまり、私たちは、神様を父、父母だと思う(愛する)ほどに、ご父母様を愛するべきでなのです。お父様は神様は1対1の関係で父子関係と語られています。私たちも神様を親として信じながら、もう一人の親、真のご父母様を親として信じるのです。根底においてたどり着くことは「真のご父母様」です。人類の最初の先祖であるし、神様が実体をもって臨在する神様の実体の体です。私たちは、真のご父母様を見ながら神様を感じていけるのです。そして神様から愛されることになるのです。

神様と私、ご父母様と私、その関係の中(間)には誰もいません。1対1です。親子の関係で中間に誰かいるわけでは無いのです。仲介する人もいません。私と親子であり、1対1の関係なのです。神様は絶対的な1対1の「親」です。変わりません。たとえ自分の子供であって神様から見て孫の立場でも、その子供は神様と1対1、唯一の神との関係があり、真のご父母様とも同様なのです。誰も間に入りません。

今私たちは、お父様からみ言を多く頂き、神様と出会います。み言を訓読し実践する場でも神様と出会います。あくまでも神様に導いてくれる内容です。み言が結論ではありません。結論は「神様にたどり着くこと」なのです。神様との関係が親子である、そこが結論です。皆さんが一生懸命、み言を訓読してテストがあるわけではありません。そのみ言を通して神様、真のご父母様と出会う為に訓読するのです。「お父様はどういう方だったんだろうか?」と、一般的にも、父はどこで生まれて何をされて小学校の時は何をしたか、どういう歩みをされ、学校の先生はどんな方で、学校の生活ではどんなだったのか、ある面やんちゃだったのか・・・等、分かれば分かるほど、父母との情的関係が深くなります。み言は、私たちを神様に情的に導く力があるのです。神様の情に近づき、親子の関係が深くなる、親子の関係が近くなる、その媒介がみ言なのです。み言は、結論ではなく「道」なのです。ご父母様をより近づき、情的に本当の親として感じていきます。特に父母経の中では、こんなこともあったのか!というご父母様の路程が載っています。

私たちは、私たちの親として神様、真のご父母様を感じていきましょう。私たちには、使命、責任、役割があります。自分がもし一国の大統領になったとしても、家に戻ったら、韓国では、親に敬礼をします。大統領という役目があっても、一国民であるお父さんに敬礼をするのです。親子の関係というのはそれを越えるのです。家庭に戻れば子供です。親子は変わらないのです。神様、ご父母様と、そのような関係を作りましょう。み言を訓読し実践していくことです。信仰の根本に戻れば、天の父母様、真のご父母様との親子の関係をいかに深く持っていけるかなのです。信仰の結論です。それ以外は使命、責任、役割にすぎません。

私たちは1対1の関係の神様を「独り占め」できるのです。72億の一人ではないのです。神様から見て私は100%です。72億の1ではありません。なので家庭連合(お父様)は信者を増やすことが目的ではないのです。神様、ご父母様を72億の一人一人に伝えてほしいのです。親である神様と人類の1対1の親子の関係をつなぐ為なのです。誰かや家族と共有する神様でないのです。私は、私の神様がおられるし、神様から見て私の価値は100%です。私も神様が全てです。私たちは、神様、父母様に侍りながら、み言を通して情的な親子の関係を持っていけるようにしましょう。

【み言訓読】天一国天聖経 第1篇 神様 他

第1篇 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第三節 真の父母であられる神様
宇宙の中心は父子の関係
4 神様と人間は父子の開係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。皆さんが神秘的な境地に入って祈るとき、「人間は被造世界の中心 ですが、この宇宙の中心は何ですか」と尋ねると、「父子の関係だ」という答えを得るでしょう。宇宙の中心について一言で結論を下せば、父子の関係だという のです。人々は父子関係というものを、普通に考える自分の父母、すなわち人倫道徳を中心とした父子の関係のことだと思っていますが、そうではありません。 それを立体的な立場で見れば、神様と人間は、父子関係の情を中心として一つになっています。その位置が宇宙の中心なのです。
13「私」は誰に似ているのでしょうか。神様に似ているのです。神様を中心として見れば、私は神様に似ていて、私を中心として見れば、神様が私に似ていま す。言い換えれば、父を中心として見れば息子が父に似ているのですが、息子を中心として見れば父が息子に似ているというのです。神様は私たちに似ていて、 私たちは神様に似ているというのです。私たちの欲は誰の欲に似ているのですか。神様の欲に似ています。神様の欲に似ているので、その欲は最高のものをもと うとするのです。神様は最高のお方であり、絶対者なので、取るに足らないものを保持しようとするのではなく、最高のものを保持しようとします。それが私た ちの心です。
第2篇 真の父母 第一章 真の父母とは 第一節 真の父母とは誰か
「真の父母」という言葉の意味
2 復帰摂理において神様のみ旨が成就されるためには、父母が来なければなりません。堕落した父母ではなく、真の父母が来なければならないのです。この「真 の父母」という言葉は、皆さんが考えもしない立場で出会う、そのような言葉、そのような内容ではありません。これは、歴史上、初めて現れた言葉です。これ は、歴史にない、奇跡的な大事件です。真の父母という言葉を語ることができるのは、今まで生きては死んでいった数多くの父母たちの愛を凌駕する、ただ一度 しかない愛をもって現れたので可能なのです。そのような基準をもったので、真の父母という言葉を語れるのです。

3月13日『信仰生活の原点に立ち新しい出発をしましょう』

(天一国四年 天暦2月5日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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私たちが使う漢字は、偶然出来ているのではなく、神様の啓示です。神様が作りながら、そこに意味を加えていったのです。

「罪」という字は、四に非ず、四位基台になっていないと書きます。
「魔」という字は、庭の中の2つの木(アダム、エバ)の所に鬼がいる、エデンの園にサタンがいると表しています。
真のお父様の下さったみ言、原理を学んでいるとこの様に意味を解くことが出来ます。

「信」という字は、人が言葉(理想)通り生きる、という意味です。しかし、堕落したこの世界では、人の言葉を信じることは出来ません。人が言葉通りになっていないからです。
信仰とは、信じて上(天)を仰ぎ見ること、地(現実)の世界を見るのではなく、理想の世界の方向へ向かっていこう、という意味です。

今の世界、現実の生活の中では、苦しいこと、悲しいこと、大変なことがありますが、理想を思いながら信じて成していくのです。仏教で言う様に、この世界は、苦の海「苦海」です。ここから新しい幸せな世界、理想世界、極楽、天国を求めることが「信仰」なのです。現実の状況を越えていく、それを信じ求めていく生活が信仰なのです。宗教はそうして人々を幸せに導いていこうとしているのです。

私たち家庭連合では、信仰の中の生活(信仰生活)をどうするかが大切なことです。お父様のみ言に「あなたたちは傍観者になってはいけない」とあります。傍観者とは、み言を分かりながら、その通りにしないで、理想と自分を離しておく人です。
信仰を持つほどにみ言は入っていますが、私たちの実体、生活圏につながっているでしょうか。私たちは実体を作り生活の中で実現をするのです。
お父様から見れば「信仰というのは、あなたたち自身がどうするかだよ」ということです。み言で相手にこうすべきだと分別する(測る)ことが多くありますが、私たちは自分の中でもう一回、そのみ言を見直していかなければなりません。み言の内容で自分の中を見つめていくのです。その内容を自分に適応していくのです。

私たちは、一つ一つのことにおいて、感謝して満足する生活を送れているでしょうか。お父様はそれが理想的な生活であると語られています。
私たちは朝日を浴び、空気を吸って、こうして皆さんと会って天の父母様、真のご父母様に礼拝を捧げること、そういう生活を出来るということが感謝です。でも感謝出来ない場合があります。それは私たちの邪心です。まだ未熟です。私たちはまだ足りないのです。そう思って天を求めていきましょう。

家庭連合の信仰は、完成した(聖人の)立場を求めます。心情的にも聖人になっていっている信仰を求めます。それは、今の自分の大変な姿より、神様がもっと苦しんでおられる、神様の恨を解いてさしあげたい、と私より今苦しみ悲しんでおられる神様を慰めたい、という成熟した信仰です。でもその信仰をすぐに持つことは難しいのです。

イエス様まで4000年、神様はイスラエルの民を立て訓練しながら2000年間メシヤを送る準備をし、イエス様が亡くなった後にキリスト教を中心にさらに2000年間再臨のメシヤを準備してこられました。
メシヤが来られること自体が感謝です。自分の一生の中でメシヤに出会うということは感謝です。そのメシヤのみ言を聞くことが感謝です。そういう準備をずっとされてきたので「メシヤがこの方である」と出会う瞬間が自分の人生の全てであり結果です。自分がどういう立場、状況であってもです。自分の全ての人生、価値、所有するもの何よりも「メシヤ」という存在が大きいのです。だから感謝なのです。2000年間のキリスト教の土台の上で信仰的に準備されたものなのです。

私たちは、成長し、もうすでにメシヤを迎える準備が出来ていて、その心情圏にいる立場です。メシヤに出会えば、そこの時点でもう成熟していて、天の前に自然に感謝することが出来る、ということです。でも、実際は様々な段階があります。今は、旧約、新約、成約を越えて、完成の天一国の時代に入っており、完成の天一国のみ言で私たちは生活しなければなりません。そういう時代圏に入っています。でも私たちはまだ、旧約の信仰をもっている人、新約、成約の段階の人もいます。

旧約時代の信仰は、自分の身も心も万物も全てを否定する立場です。新約時代に入ると神様の心情にたどり着く生活となり、成約時代は、神様、ご父母様の心情はどうなんだろうか?と心情につながっている生活となります。神様の心情が分かり、その心情と一つになり、神様の恨を解いて差し上げたいという心情圏にたどり着く時代です。

天一国時代は、神様が求める本然の(本来のアダムとエバが)理想の世界に入って、神様を求める天国の生活を実体で成す時代です。何事も感謝していける時代に入っています。なぜそう出来るのかというと神様の心情が分かるからです。神様の心情にたどり着けるからです。ご父母様の心情圏に入れるからです。神様の恨を分かっていて、自分の苦しさ、悲しさより神様の恨が大きいと分かるからです。だから自分が今苦しくても、私の苦しさより神様の苦しみの方がもっと大きいので、何とか自分を越えて神様を慰めていきたい、解放して差し上げたい、という基準です。

その基準にまだたどり着けない場合は、お父様は「私は罪人です。私は足りない者です。だから勇気をお与えください」と神様に求める、頼る、お願いしますと全てを神様にゆだねていくようにと教えてくださっています。自分の事情圏、状況すべてを越えて、天の事情と心情圏に立つのは簡単ではないのですが、自分を見直して、天にすべてをゆだねていく、そういう信仰を持ちなさいということです。

お父様は「信じておこなえば出来ないことはない」と言われます。奇跡とは実際にはありえないことがおこるということです。皆さんが今この時代に過ごしながら奇跡を感じていますか?実は私たちは奇跡的な世界に住んでいるのです。外的に見ればすごい世界に変わりました。テレビが無かった時代から白黒テレビ、カラーテレビ、今は携帯でテレビが見れます。カメラも音楽も電話も携帯で出来ます。20~30年前には想像もつかない世界でした。今は当たり前に感じていますが、20~30年前には今起きていることは奇跡です。

天が導いて、天の恩恵圏の中で与える奇跡もあります。
私の友人の話です。日本を巡回されたお母様が集った責任者に「この中に子供がいない者はいるの?」と聞かれ、ある方が家庭をもって10年たっていますが子供が居らず、病院で検査したら子供が出来る確立は0.001%と分かり養子を考えていると報告しました。お母様は「子供がないの?あったらいいね」と声をかえられました。そのお母様のみ言を受けてすぐ妊娠をしたのです。やがて男の子が産まれました。また次に男の子が産まれ、さらに3番目の男の子も産まれました。

また、先日ある方に聞いた話です。ごく最近の話です。今まで本当に頑張って貢献してこられた方が末期がんになってしまいました。でもその方はお母様が行かれたヨーロッパに何とか行きたい、と思っていましたが周りは止めていました。その方のことを聞かれたお母様は、「これを着て祈りなさい」とご自分のコートをあげたのです。去年の11月から彼女はそのコートを着て天の前に条件を積んで祈りました。医者はそろそろ亡くなる準備を、と言いましたが、今、彼女の病気はほぼ治りました。
奇跡というのは、地においての信仰の土台と条件と天がそこにおいてその方を導いて祝福する大きな内容があります。この世的にはありえないことが本当に起きてくるのです。

家庭連合は今まで教団の為に歩んできませんでした。教会の建物は立派なものではありません。本来のキリスト教の準備された基盤がなくなったので、お父様が犠牲を払い、私たちを教育しながら来られました。お父様は私たちを通して神の摂理を成そうとされました。人類を救おうとされました。この教団の発展ではなく、教団を通していかに人類を救うか、神様を解放するか、と考えてこられました。これを成すことが人類の救いのためになるのか、神様を解放することになるのかが焦点です。なのでお父様の成される摂理は教会が大きくなるものはほとんどありません。そこに天のみ旨があり、天が求める内容があるのです。南米に行かれたのも、アメリカに行かれたのもそのためです。お父様は、一つの種を植えて、千、万になることを願われます。一つの種が一つの結果を持ってくることを求めないのです。大きな結果を結ぶことが出来るところへ行かれるのです。

今、誰より何より、苦しんでおられる神様がおられます。悲しんでおられるご父母様がおられるのです。解放してさしあげないと私たちは救われてると思っても救いにならないのです。キリスト教はイエス様を十字架に送った後に、流されたイエス様の血の代価で私たちの罪を許された、救われたと思っています。でも愛するひとり子イエス様を信じメシヤだと思っているのに、そのお方が十字架にかかって血を流しているのを見て、その代価をもって交換していく考え方、観点は西欧的です。その感覚で十字架におられる血を流している苦しんでおられるイエス様、愛するイエス様を見ながら、私が救われたと喜んで本当に言えるでしょうか?神様の心情から見れば、愛する独り息子が十字架で苦しんでいる姿を見ることは耐え切れません。そのご心情を思えば私たちも耐え切れないはずなのです。

神様を解放することで、神様が与えてくださる愛と許しと祝福を私たちは頂けるのです。今、私たちが福を受けたい、苦しい中で解放されたい、と思うかもしれませんが、実際、私たちは神様を通して解放されますし、救われますし、許されているのです。人類はなぜ苦しむか、なぜ悲しむか?それは、人間が堕落して罪の中で罪悪の世界にいるからです。神様を失ったのです。ですから神様の元に戻れば、神様の中に愛があるし、祝福があり、許しと恩恵があるのです。そこに私たちがいかに戻っていくかです。

神様が解放されない限りは、私たちは神様から福を頂くことはできません。それがご父母様が一生涯そういう歩みをされました。その勝利圏を私たちに渡しながら、私たちにもそういう人生を歩みなさいと教えてくださいました。お父様に侍りながらきた中で、私が大変です、苦しいです、私の家庭を何とかしてください、という祈りと歩みをした方ではありません。ひたすら、神様、人類を思って歩んできたお父様です。

「人類」とは私のことです。お父様が私の為に苦しんでいるし、悲しんでいるし、苦労しておられるし、イエス様の苦難はただの苦難ではなくて、私を救うために逝かれたのです。ですから、イエス様を何とか慰め、解放してあげたいと、とらえていきましょう。お父様も同じです。お父様が私の為に苦労し悲しんでおられる、一生懸命私を救う為におられたご父母様の姿を見ながら、ご父母様を解放して差し上げたいと、とらえましょう。だから真のご家庭が犠牲になり苦しむとしても、神様、人類の解放をしたい、とそこに焦点を合わせる中で、私を救う為にお父様が行かれた道です。客観的にならないで下さい。73億の人類の一人である私の為に今苦労しておられるのです。お母様の心も今、様々な問題があっても、中断なき前進として、神様を解放してさしあげたい、お父様の願うことを成してさしあげたい、と思われながら、人類、私たち一人一人をたずねてくださるお母様です。ご父母様の、ご家庭のために生きず、人類の救い、神様の解放の為に歩まれる姿は私たちの前に変わりません。

私たちは今、その原点に戻らなければなりません。私たちの信仰の原点は、私たちがもっとご父母様と一つになって、神様を解放してさしあげたい、人類を救い、そして最終的にご父母様を解放して差し上げることです。ご父母様は、人類を救うことによって神様を解放して差し上げたいのですが、私たちから見れば、人類を救いながら神様を解放して、ご父母様を解放して差し上げよう、これが本来成熟した天一国の信仰の姿勢なのです。最後にご父母様を解放して差し上げること、それが原点です。それが成せれば、私たちが抱える色んな問題、課題が解けます。天の祝福がそこにつながります。

今、お母様の願いは、お父様と最低限2020年までに成すと約束した内容があり、最低限この基盤で天の願いを叶えていくという一つの基準があります。それを目指して今お母様は一生懸命、2020年に向かっています。私たちもお母様と一つになって、お母様を解放して差し上げたい、霊界におられるお父様を解放して差し上げたい、という親孝行の心情をもって、この1週間を歩んでいきましょう。

【み言訓読】天聖経 第8篇 信仰生活と修練

第1章 信仰生活とは何か 第一節 信仰生活とは
1信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満足する生活ができなければなりません。世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、その反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならないのです。
2「信じて行えば、できないことはない」。このような信仰観をもたなければならないのです。「第一の主体は神様であり、私は対象である。完全なプラスは、完全なマイナスを創造する。自分は第二の神様、第二のイエス様、第二の父母様の立場にいるので、その立場に到達できる!」という考えをもたなければなりません。先生がどのようなにして世界的な仕事を独りでしているのかということを考える時、このような哲学的背景を中心として、直接的に国を消化していっているからです。ですから、先生の前に潔く、「私たちは、これを伝授されて、間違いなくそのように生きます」と約束しなさいというのです。
7神様は、自分の教団を中心として信仰生活をするキリスト教徒を望みません。先生も統一教会という看板をつけていますが、「この看板をいつ取ってしまえるだろうか」と考えます。皆さんは統一教会の人たちだと注目を浴びているかもしれませんが、その注目が三千里半島(韓半島)でいつ消えるかというのです。世界に広がっている統一教会の食口たちは、神様の恨を解こうと歯を食いしばって努力し、神様の苦難の道を代わりに歩もうと、忠孝の心情で走っています。この仕事をして倒れるのを最高の基準として、決意して歩んでいる群れが統一教会の食口たちです。このように行く道が恵みの道なのです。
14世界には二種類の人がいて、宗教者の中にも二種類の人が存在します。とにかく自分は楽に、良い暮らしをして福を受けようとし、自分の教団が豊かになり、自分たちの民族は幸せに暮らそうと祈る御利益宗教は、消えていくのです。そのようなことを知ったので、統一教会は、自分の一身を犠牲にしてでも神様を助け、神様を解放しようというのです。統一して何をするのでしょうか。神様を解放しようというのです。神様の真の権威を中心として、人類始祖と共に無限の幸福をたたえながら理想郷で暮らすことができ、侍られながら過ごすべき神様が、このような悲惨な姿になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放させようというのです。これは驚くべき提言です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様にとってこの上なく喜ばしい知らせなのです。

3月6日『真の父母様御聖誕・基元節3周年および天宙祝福式の恩恵』

(天一国四年 天暦1月28日) 徳野英治会長み言DVD視聴と礼拝説教 金 城鋒教会長

画像の説明

真のお母様が今一番関心を持っておられることは、2020年まで4年間をどうするか?です。
真のお父様が2012年聖和された後3年間、お母様は信侍生活の期間を持たれました。基元節3周年までのこの3年間は、信侍生活の3年間でありながらも、お父様は霊界の整理をする時間でした。具体的、実体的動きがない中で、お母様は霊界のお父様と交流をしておられました。お父様は霊界におられるご子女様(孝進様、興進様、栄進様)と共に霊界で色んな整理をしておられました。3年間の整理の結果、今まで霊界においての全ての内容をお父様が主管されるようになりました。それの代表的なことは「清平役事」です。今まで代身(金孝南執事)を立てて、興進様と大母様の役事をしていましたが、これからは、お父様が霊界において直接主管する時代に変わり、全て権限をお父様が持って直接主管して地上と霊界をつなげるのです。地上においてはお母様を通して、霊界においてはお父様が主管する時代になったのです。

清平の役事が始まって21年になり、その結論は、霊界においての整理が成されました。メイン的には、天正宮という神様、ご父母様がおられる宮殿を造ったことです。そして、もう一つ、ワールドセンターを造ったことです。最初から重要な行事の為に造られるという暗黙の話がありました。お父様の聖和を準備する場所であると私たちは勘で分かりました。ワールドセンターはお父様の聖和式する場所として準備されたものだったのです。聖別されていない一般の施設でなすことは出来ません。このように清平は摂理とは別の動きをして準備をしてきたのです。霊界において21年間興進様、大母様が積み上げてきた内容がここに大きくあるのです。

清平に作られる予定の博物館には、世界の村が造られます。世界の色んな国、民族の村を造っていきます。それは世界中(お父様の訪問された国)でのお父様の業績、歩み、生涯の縮小体となります。お父様が地上にいる間に訪ねられた場所が造られるのは、そこに神様が来られたからです。そしてお父様とどういう歩みをし何をされたか、です。その国がご父母様とどういう因縁があったのか、ご父母様とその国がどういう歩みをしていたのか、です。世界の村を造るということは、お母様のイメージ中ではお父様の生涯記念館を造るだけでないのです。

3年間の霊界での整理の期間が過ぎ、地上においての2020年までの4年間が今から出発します。この4年間の出発、2016年は重要な年です。私たちは何をするべきでしょうか。お母様が中心的に求める内容は「神氏族メシヤになる」ことです。「メシヤ」とは、ご父母様、イエス様しかありませんが、私たちが氏族の救い主になるのです。氏族において、真のご父母様の代わりに氏族を救うのです。神様が理想とするこの世界は、一つの民族、一つの国家、一つの世界です。私たちは個人、家庭として「祝福」を受けました。私たちに与えてくださったのは「氏族」です。民族、国家、世界は、真のご父母様を中心として形成するものです。私たちは、地において、アダム、エバの堕落により、堕落した血統をもってここまで堕落圏を増やしたので、堕落世界において天の前に取り戻す為に、今までの全ての内容を復帰していく、帰っていく、その範囲として下さったのが「氏族」なのです。

私たちは、氏族のメシヤとして天の前に恩恵を頂いています。それは限りない神様の祝福です。神様、ご父母様は私たちに氏族の救い主、王の位置を与えて下さいました。責任を持っていながらも、これ以上の神の祝福、恩恵はありません。お父様が地上において私たちに下さった大きな恩恵は「祝福」です。この価値は、地の全てのものを越える価値がある、貴いものです。永生の命を私たちに与えてくださるのです。その「祝福」を私たちが頂くのが一番大きな恩恵と恵みです。お父様がメシヤとして私たちに(この地に)与えて下さった「祝福」は特別なもの(ご父母様の特許)です。神の息子、娘として生まれ変われる恵み、恩恵は、どこの宗教にもありません。
そして、もう一つは、「氏族メシヤ」です。お母様は人類のメシヤとして、まだ真の父母様を知らない人に「真の父母様を知らせてほしい」と言われています。その意味は「祝福を与えてほしい」ということです。神様の息子、娘として導いて、人々を祝福してあげてほしい、ということなのです。これが結論です。私たちは「氏族メシヤ」の権限を頂き、救い主となるのですが、その権限はご父母様の代わりに氏族にご父母様の祝福を与えるということです。「祝福」以上に価値あるものは無いのです。私たちの氏族を永遠に神の息子、娘として生きる道を与えるのが「祝福」です。それ以上の福を与えることは出来ないのです。なので、氏族の祝福は大変重要なのです。また、先祖を愛し、救うには、先祖解怨、先祖祝福しかありません。その道しか完全に救われる道は無いのです。

アダムとエバが堕落したことで神様が創造した1男1女がいなくなりました。成長し神様の息子娘として育って、ある時になれば結婚させる、家庭を持たせること、そして子供を産むことを神様は楽しみしていました。神様は地上を創造しながら1男1女を創造しました。それ以上は出来ません。種を作るのは神様です。産まれる子供は1男1女ではないのです。神様以上に偉大になるのです。神様はそれを祝福したのです。神様は1男1女である息子娘、一人息子、一人娘しか創造していないのです。人類の種は一つです。人間の先祖、出発です。1男1女という根本があります。原理原則、創造の根本です。神様は独り息子を必死で探してきました。それは種だからです。アダムのあばら骨をとって創造したように、アダムが来なければエバが来れません。相対圏をもって生まれてこれないのです。なので、独りの息子を地上に送る、それが徹底的な神様の願いでした。独りの息子を地上に送ることによって、相対圏である独りの娘を堕落した血統の人類の歴史から探し出すことです。独り息子と独り娘が立つことによって、その独り娘は絶対的なものを持っています。独り息子も絶対的なものを持っていますが神様が送る者です。対象圏があっても誰でもなれるわけではありません。真のお父様が来られてメシヤであるし、真の父母になるということは、真の母が立てることが必要でした。そこにおいて勝利をしているので、真の父であるし、真の母が確定することによって、神様の創造本然のアダムとエバの位置に戻ったのです。完成したアダムとエバの位置を確定しているのです。神様が創造したアダムとエバは真の父母になる種を持っていて神様は理想をかけていきましたが、堕落によって離れてしまいました。それがなければ、真の父母となって、その真の父母を通して永遠に変わらない神様の1男1女としていったはずだったのです。独りの永遠なる変わらない価値をもっている、独り息子、独り娘なのです。完成した、勝利した独り息子、独り娘なのです。男と女では成長、性格、体も違います。アダムは男性としての成長を完成し、エバは女性としての完成をします。完成した男性と女性となった二人を結婚させ祝福することによって、真の父母であり真の夫婦になるのです。「完成」が前提で、神様の変わらない絶対的価値「独り息子、独り娘」があります。それによって真の父母は、永遠なる先祖であるし、血統の主人であるし、変わらない核になるのです。そして神様は真の父母と完全に一体となります。

アダム、エバと真の父母様の違いは、一般的には私たちは完成の道を行きますが、それは真の父母の代わりです。完成したアダム、エバと後孫との違いは、完成した人間は神様のような神性を持つようにはなりますが、完成したアダムとエバ(真の父母)は、神様の体の実体になるのです。神様は見えません。無形で霊界に行っても姿はありません。光であられます。私たちは霊界でも永遠に霊人体という体を持って生きます。神様は霊界で真の父母様の体をもって現れてきます。神様の体を持つ方はこの先も真の父母様しかないのです。それが真のご父母様の位置の貴さなのです。誰も変われません。

神様と真のご父母様は同じ、イコールではありません。真のご父母様が完全に一つになっている姿に神様が乗り移ってきて、ご父母様の体をもって神様が現れるのです。まったく違う個体です。天正宮入宮戴冠式、神様王権即位式が成された時、お父様の座る席と神様の座る席それぞれありました。
まったく別(の固体)だとしても、ご父母様を通して私たちは神様を見ることが出来ます。真のご父母様を通して神様が出てくるのです。今、お母様の姿を通してお父様が出てくるときがあり、神様が出てくるときがあるのです。それを私たちが信じているかどうかです。お母様が基元節で出てこられた姿を見たとき、お父様に似ているなぁと思うときがあります。お母様なのですが、何だかお父様の歩き方のようなのです。よく見るとお父様と似ているなぁと思うときがあるのです。お母様がおられるのですが、そこにお父様も共におられるのです。お母様が穏やかにみ言を語れますが、ある時、突然、お父様のような雰囲気で「決意しているか!」となる、と言われている食口がいます。そういう感じで私たちがご父母様への感覚を持つかどうかです。

堕落した全ての人類を生み変えて、神様の息子、娘として帰っていくようにするのは、メシヤ、救い主として来られた真のご父母様しか出来ません。それはアダム、エバが堕落して神の血統を失ったので、本然のアダムとエバが立たない限りは、本来の神様の血統に戻れないのです。真のご父母様でなければ「祝福」ということは生まれていないのです。その位置に変わる方は誰もいません。ご父母様の位置で「祝福」を下さり、私たちが神の息子、娘として生まれ変われるのには、その位置を誰かが変わることは無いのです。ご父母様しかないのです。その次の方々は、ご父母様の権限を頂いてやっていくので代身、代理なのです。ご父母様しか「祝福」の権限はないのです。根本的な血統の先祖である方にしか全ての人類を神の元に戻すことは出来ないのです。たとえ、ご子女様であっても、お孫様であっても、その権限は無いのです。

今、私たちは成すべき内容は、神氏族メシヤを成していくことです。まずは、自分たちの親を祝福しているでしょうか?亡くなっている場合は解怨し、夫婦でおられれば既成祝福を受けてもらいます。一人なら霊肉祝福となります。これ以上の親孝行はありません。これ以上の与えられる福はありません。永遠の命を与えることだからです。まず、親、きょうだいの祝福をなすべきです。それが大前提です。その次に、私たちの氏族圏です。親族はアベル氏族圏、地域の友人、知人はカイン氏族圏です。そうした近いところから対象に考えましょう。すぐ動けない状態でも、絶対的な内容なので、いつかは成さなければなりません。諦めず、確実に一段ずつ条件を立てて進まなければなりません。いつか絶対(成す!)と、私たちが折れない限り、いつかは成せます。時を目指して、条件を積んで、一歩一歩前進しながら、私たちは自分の祝福、氏族の祝福、そして、地域の友人、知人の祝福を目指していきましょう。それをご父母様は一番願っておられます。私たちへの最高の天の祝福なのです。氏族の王になる、救い主になる、ある面、王権をもって、2020年までの4年間、お母様と共に歩んでいきましょう。

【み言訓読】天聖経 第5篇 真の家庭

第2章 本然の男女の愛と祝福結婚
第4節 祝福家庭の歴史と意義
47 皆さんは、氏族的メシヤにならなければなりません。とりわけ既成家庭には、氏族的メシヤという言葉がどれほど有り難い言葉か分かりません。それがなけ れば、物事が進みません。ですから、息子、娘を育てて、必ず祝福を受けるようにしなければなりません。そうすれば、その息子が生んだ皆さんの孫は、神様の み前に完成型になります。この息子、娘を中心として、先祖たちの赦しを請いなさいというのです。

48 既成家庭と新しく祝福を受けた家庭と先生の家庭と、三つが一つになってこの国を取り戻さなければなりません。国を取り戻してこそ、イエス様の願いが果 たされます。イエス様が失敗したことを解怨成就できなければ、息子の恨を解くことができません。息子の恨を解くことができなければ、神様の恨が解けませ ん。父母の前に解怨成就してさしあげられる道が生まれないというのです。ですから、まず息子の恨を解かなければなりません。イエス様が国家を中心として世 界的にやって来て、神様の息子としてやって来て恨が募ったので、これを解かなければならないというのです。

50 皆さんが独りで独身祝福を受けることより、二人が地上で祝福を受けるほうが福です。本来、祝福は独りでは受けることができません。本来、エデンの園で の祝福は、女性の前には男性が、男性の前には女性がいなければなりません。創造理想から見るとき、男性と女性が神様のみ前に祝福を受けるのが原則です。で すから、この独身祝福は非正常的です。

皆さんが独身で祝福を受けるようになれば、将来、霊界に行って皆さんが相対を選択できる権限をもつようになります。女性たちが先生を通して祝福を受けれ ば、数多くの霊人たちの世界において男性を選ぶことができます。ですから、霊界に行って、このような式をまたしなければなりません。そのようなことを、地 上で真の父母様の名によって許諾を受けるのです。

霊界の数多くの霊人たちの中には、今まで、相対がいて、結婚した霊人がいません。結婚というものは、真の父母から真の子女として生まれてするものなのです が、霊界に行っている霊人たちは、地上で真の父母を通して生まれていません。サタン世界の血統を通して生まれたので、結局、真の父母を通して接ぎ木するこ とによって、新しい血族として登場することができるようになるのです。地上にいる皆さんと霊界にいる未来の新郎、あるいは未来の妻と、そのような関係を結 ぶことができるという条件をかけて祝福を受けるのです。

51 独身家庭を祝福すれば、霊界にいる自分の相対者を中心として結婚することができる時代も来ます。国家的基準を越え、世界的基準を越えて霊界に行って、 初めてその時代を中心として祝福を一緒に受けることができるのです。今まではそれが不可能でした。既成祝福を受けるときは、本来はすべて分かれて、それか ら祝福を受けました。今からは一緒になって受けなければなりません。地上でそのような恵沢を受けるので、一双を祝福すれば霊界の祝福までするので、共に一 元化同位圏に立っていることによって、地上で霊界にいる相対と祝福を受けるのです。


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