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説教 2017年7月

説教 2017年7月

7月30日『出会いと出発』

(天一国五年 天暦6月8日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

新約聖書
ルカによる福音書 5章1節〜11節
1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

天一国天聖経
第8篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か
第三節 信仰生活の道
12 人間は、本来、ために生きることのできる一つの中心と連結され、自分の生を出発するようになっていましたが、堕落によって誰かのために生きるところから自分の生を出発できず、自分自身のために生きるところから生を出発するようになり、あらゆるものを自己中心にのみ考えて関係を結ぼうとするようになりました。永遠の自由と平和を目標にして進む私たちは、あらゆるものを自分のために帰結させようとする堕落性を脱いでしまい、自分を越えて、まず誰かのために生きられる自らにならなければならないのです。

第二章 心と体の修練
第五節 体の修練
10 イエス様も断食をしました。どの宗教を見ても、その宗教内には苦行をしない人がいません。そのような宗教であるほど、高次的な宗教です。この世を完全に否定した立場から出発してこそ、完成されます。真の宗教は、全体を否定しながら進んでいくようになります。世の中が考えることとは違うというのです。 真の宗教は、世の中のことを肯定するところから出発するのではなく、否定するところから出発します。否定のどん底から肯定の要件を形成させて、自己主管圏を立てていかなければなりません。ここにおいて、心を中心として再創造されたという価値をもつ存在になる時には、善の人になるのです。

第六節 心と体の統一のための生活
14 「私」の心が動いて出発するとき、あるいは「伝道しよう」と思うとき、望んでする人がいて、仕方なくする人がいて、死ぬかと思って恐る恐るする人がいます。どのようにしなければならないのですか。歓迎してするのか、やむを得ずに、死ぬこともできずに仕方なくするのでしょうか、恐ろしくてするのでしょうか。どうなのですか。それは、みな落第です。
それでは、どのようにしなければならないのですか。心と体が主体と対象の関係になっていて、その相対の位置と環境条件が一致しているときは、喜びで出発するのです。悲しみで出発するのではなく、喜びで出発するようになっています。喜びの内容が最初であって、悲しみの内容が最初ではありません。堕落とは何でしょうか。悲しみの内容が最初であり、喜びの内容はスタートもしなかったというのです。復帰の運命の道を求めていく私たちとしては、み旨を喜びの内容として出発し、喜びの過程として消化させてこなければなりません。


7月23日『偶然と必然』

(天一国五年 天暦6月1日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

天一国天聖経
第11編 礼式と名節
第五章 主要名節と記念日
第一節 主要名節
21 地政学的に見るとき、韓国が強大国の侵略を受けながら、どれほど多くの血を流したか分かりません。そのような恨多き歴史過程において、どれほど多く の若い男性たちが軍隊に引かれていき、また若い女性たちが引かれていったでしょうか。願わない受難の過程において、家庭と個人が犠牲になり、男性と女性が そのように犠牲になり、国土が蹂躙され、国権が踏みにじられました。どれほど多くの侮辱を受けたか分かりません。
先生の一家を中心として起こった内的な出来事を見るとき、それが偶然にそのようになったのではありません。必然です。夢でもなく、どうすることもできない必然的な結果です。そのため、アベルを中心とした蕩減歴史が、ある一つの家門を中心として、前後左右にすべて清算しなければならない摂理史的運命があるので、その運命の場に呼び出されたのが、先生の家庭であることは否定できません。先生は、そのような背景をもって生まれなければならないのです。

第12篇 天一国
第四章 天一国のビジョンと責任
第三節 天一国時代の私たちの責任
3 真のお父様は、「基元節」を私たちにとって最も重要な日として宣布してくださいました。「基元節」のために、「神様王権即位武」から十二年間、多くの 摂理的な活動をしてこられたのです。偶然に、簡単に訪れた日々ではありません。神様が復帰摂理をされながら選民思想を立て、準備してきた国がイスラエルです。イスラエル民族は、救世主が来るのを待ちました。救世主が来れば、すべてのことが解決されると期待しました。その救世主が華やかに来ると思ったのですが、彼らは蕩減というものを知りませんでした。復帰摂理歴史には責任があるのです。その責任を果たせなければ、蕩減が伴います。この時代においても同じです。

第13篇 平和メッセージ
第一章 天一国の理想家庭
第一節 宇宙の根本と真の血統
16 私たちが世の中を生きていってみれば、たくさんの縁と関係が、必然的に私たちの人生に影響を及ぼすようになることを発見します。ところが、大部分の関係は、人間の恣意による選択権の中で結ばれるようになります。皆様が置かれた環境や条件の中で、必要によって結ばれる関係だというのです。このような関係は、後天的な関係であり、人間の努力いかんによって、いつでも変えたり、なくしたりできる人倫的次元の関係にすぎません。しかし、生まれる時から天が賦与してくださった天倫は、私たちの選択権の外にある源焦的な関係であり、宿命的な関係です。なぜなら、血縁だからです。父母や兄弟を、嫌いだからといって替えたり、選挙で選んだりすることができないのも、それが血縁的関係だからです。一度、金氏の家門の子女として生まれれば、永遠に金氏の家門の血統をもって生きるようになるのです。


7月16日『3K(感謝、感動、感激)の人生』

(天一国五年 天暦閏5月23日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

天一国天聖経
第10編 平和思想
第四章 世界は平和のための構想
第ニ節 共産主義の問題点と終焉
22 一代はもちろん、十代、あるいは百代、千代、さらには人類の最初の先祖から、今後、来る数多くの子孫まで、永遠に感謝できる主義、思想がこの地に現れるとすれば、その思想によって世界は征服されるのです。過去の数多くの聖人、賢人までも感謝、感激できるその何かがあるとすれば、霊界も協助するようになります。そして、この時代の数多くの人間も、そのような思想と理念があるとすれば、感謝、感激せざるを得ないでしょう。それが、今の時代で終わるのでなく、過去から現在、未来まで連結されるに違いありません。そのような内容を私たちが探ってみる時、これが何によってそのようになるのでしょうか。このような観点から、統一教会が特に主張するのは心情なのです。

第4編 真の人間
第三章 真の人間に復帰する道
第一節 人間の蕩減復帰
1 皆さんは、一つの生命が高貴であるということを感じなければなりません。「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一 六・二六)と言われたイエス様のみ言をそのまま感じ、体験できる人になってこそ、宇宙を主管する資格をもった人になれるのです。
皆さんは条件を立てる資格をもった人になりましたか。皆さんはいつ、サタンから賛辞を受けるほどに神様を愛し、サタンをこの上なく感動させることをしてみましたか。皆さんがそのようにできなかったので、神様は人類を愛してくださって蕩減の道を開拓し、その本然の世界に帰るまで従っていきなさいと教えてくださるのです。それが統一教会の原理です。復帰の道は探し求めていく道であり、原理の道はたどっていく道です。先生がこの蕩減復帰の道を来るとき、先生の一生は探し求めてくる路程でした。ですから、皆さんは、先生が既に探し出した道に従ってきさえすればよいのです。

第8篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か
第一節 信仰生活とは
1  信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。
そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満足する生活ができなければなりません。
世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。
そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、その反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならないのです。

第7編 地上生活と霊界
第四章 再臨復活と神霊の役事
第二節 神霊の役事と霊的現象
1 霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません。一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する相関関係にあります。私たちの教会も、本来神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことを言うのではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が統一教会の運動です。


7月9日『総生畜献納祭と天一国入籍』

(天一国五年 天暦閏5月16日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

み言選集 
「総生畜献納祭」の「総」という言葉は何でしょうか? 旧約時代の清算、新約時代の清算、成約時代の清算...、解放統一時代を清算して越えることが総生畜献納祭だということを知らなければなりません。
旧約時代は万物を裂いて祭物を捧げました。サタン世界の物を神様の前に捧げるときは、裂かなければならないのです。右側が完全に合うようにしなければ、神様の所有権が生まれません。そのままサタンの物になるというのです。万物を祭物として、犠牲にして蕩減の材料として使ったのは、息子、娘が来ることのできる道を整えるためです。祭物を捧げることによって将来、神様の息子、霊界に行ったアダムと失ったエバを、探すことのできる道が生じるというのです。それは旧約時代の歴史です。イスラエル民族がカインであり、ユダヤ教がアベルなのですが、この二つが一つになって、メシヤと一つにさえなっていたら、息子と娘が天国に連結されるはずだったのです。それにもかかわらず、これも失敗したために、息子の代わりに王として来られたイエス様が、二つに裂かれたというのです。霊界と肉界とに裂いたというのです。
(二九七-七四、九八年十一月十五日)

皆さんは最善を尽くさなければなりません。それを皆さんは惜しんではなりません。旧約時代、新約時代、成約時代が何ですか? 神様の所有がありません。神様の所有がないのです。怨讐に奪われたので、条件をかけて取り戻すための役事をしてこられたのです。神様のものである十分の一献金から始まるのです。十分の九はサタン側です。これからは反対の時代が来たゆえに、十分の九、十分の十を天ものとして、完全に一つとして捧げなければならないのが、総生畜献納祭というものなのです。そうでなくては、地上の整備がなされないのです。
(三〇二-二三、九九年 五月十四日)
 
今後国が成立すれば、家庭が入って、憲法と法を中心として全体世界を蕩減して、整理し、天国の国民として入籍する時代がやってくるのです。入籍しなくてはなりません、入籍。今は国がありません。
(二九七-八一、九八年十一月十五日)
解放は全体が総生畜献納祭を越えてこそ成されます。そうなることによって、理論的にすべてがきれいに整理されるのです。そして、天国の門を開けて天国に入ることができるのです。 
(二九七-八四、九八年十一月十五日)


7月2日『基元節と天一国入籍』

(天一国五年 天暦閏5月9日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

天一国天聖経 
第十二編 天一国
第四章 天一国のビジョンと責任
第一節 「基元節」の宣布とその背景
1 一九四五年から七年であれば、一九五二年までです。一九五二年に「神様王権即位式」を行い、先生が四十歳のときに天下統一をして、天の国と地上を治めなければならない責任がありました。キリスト教が反対することによって、それが着地できなかったのです。新婦になる息子、娘を霊的に探し出し、肉的に一つになっていたならば、統一天下になっていたはずですが、宗教圏が先生を追い出してしまいました。ユダヤ教がイエス様を追い出したのと同じように、追い出してしまったのです。
 蕩減の原則があるので、アダムの立場でエバ圏の失敗をひっくり返し、いくら反対したとしても天地の統一圏を探し出しておかなければなりません。そうして、 実体的基準でイエス様の体を再び探し出し、霊的基準を連結させたのが、三〇〇〇年に向かって出発し、聖書歴史七千年が出発する二〇〇一年一月十三日の、「神様王権即位式」です。一月十三日、十三数です。十二弟子とその中心であるイエス様が一つになり、十三数の家庭さえできていれば、イエス様は死ななかったでしょう。このようなことを知らないので、終わりの日に父が完成した天理の大祝福の内容をもってくることに反対するのです。
4 三〇〇〇年に向かって出発する二〇〇一年一月十三日を中心として、「神様王権即位式」をしてさしあげました。その日を中心として、満十二年の峠を越えた二〇一三年のそのときには、私たちの家庭と私たちの民族、私たちの国家と私たちの世界が、怨讐の地に最後の離別を告げなければなりません。いくら悲惨な環境が展開するとしても、私たちは後ろを振り返ることなく、希望の祖国光復のたいまつを掲げて勝利の力強い凱歌を、天地が振動するほどとどろかせなければなりません。天地と一つにならなければならず、新しい愛のときの声とともに、愛の稲光を中心として天の栄光の旗を立てるべきその日に向かって、私たちは、進んでいることを忘れてはなりません。今まで延長させてきた恨の歴史を残したこの地上で、真の父母が神様と一体になり、苦労をして王権即位式を行ったのと同じように、 その十三日を代表し、二〇一二年を越えて二〇一三年になるとき、建国ではなく、挙国的なすべての勝利の覇権をもって天のみ前にのろしを高く上げ、奉献しなければならない天地人父母様の召命的責任が待っているというのです。

第二章 天一国の構造と定着
第四節 天一国入籍と定着
1 今まで天の国への入籍がありませんでした。天の国に、国がなかったのです。家庭もなく、国もありませんでした。霊界に行くと、十人家族なら十人がみな、ばらばらになっているのです。しかし、これからはそうではありません。本来堕落しなかったならば、父母と一族が一緒に入っていくべき所が天国です。
16 国を探し出せば、皆さんは入籍しなければなりません。入籍とは何か分かりますか。族譜を作ることです。これから統一教会を中心として、国に入籍するときは、族譜を作らなければなりません。族譜を作るときは、必ずすべてのものを天にお返しするのです。多くても少なくても、精誠を込めて自分の生涯のすべてのものを、生命を身代わりしたすべてのものを、国に捧げるのです。
17 今後、天国に登録する新しい出来事が起こります。戸籍に載せなければなりません。戸籍に載せるためには、国がなければなりません。国がなければ入籍できないのです。ですから、国がどれほど重要かを知らなければなりません。国があってこそ、その国によって神様が思いどおりにすることができ、私たちにも、迫害圏であるサタン世界を踏み越える基盤が初めてつくられるのです。ですから、御飯を食べても、何をしても、いつでも国のことを考えなければなりません。


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